8月第4週 分水の森、小川の匂い、富士見で暮らす


■ 分水の森でみずならの会

詩人の尾崎喜八(1892-1974)は、荒川に沿ってさかのぼり、秩父の山を歩いたことがある。
戦後の一時期には長野県の富士見町に暮らしていた。戦争を賛美する詩を書いたことを悔いていて、知人が所有する別荘の一部を借りて都内の住まいから隠遁したのだった。
没後、尾崎を慕う人たちの集まりがあり、毎年、命日(2月3日)に近い2月の第1土曜日に蝋梅忌(ろうばいき)、夏には「みずならの会」といって、ゆかりの地へ旅をしている。
今年の「みずならの会」は、かつて暮らしていた富士見の住居跡で開かれた。

JR中央線の富士見駅から北西に歩いて10分ほど、富士見高校に一部が接する位置にある。
土地が小高く盛り上がっていて、雨が降ると、天竜川と富士川のどちらかに分かれていく、いわば分水嶺にあるので、住まいは分水荘といった。
あたりは、ゆるやかに起伏する土地に、畑地があり、住宅があり、ガソリンスタンドがあり、ショッピングセンターがあるというような、ふつうの郊外風景なのだが、別荘跡の一角だけ、こんもりと森になっている。
集まりの予定時刻より早く着いたのに、どこで集まりがあるのかわからず、かなりの面積がある森を2周して、ようやく踏み跡がある道に気がついて入っていくと、もう集まりが始まっていた。

木立のなかのやや開けたところに円陣ができていて、中央に尾崎喜八の娘、栄子さんがいらして、暮らしていた頃の話をされていた。
かつて庭仕事、畑仕事を手伝っていらした方なども、ときどき話に加わる。
尾崎喜八が暮らした分水荘の跡の森

土地と別荘の所有者であった人の家も、尾崎喜八が借りて住んだ家も今はない。 草が生え、木が繁っていて、今いるあたりが前庭だったという。
太いのと、細いのと、2本のイチイの木があり、かつて暮らしていた頃は、太いほうが今の細いほうくらいだった。
大きな石があって、甲斐駒ヶ岳に似ているので「甲斐駒」と呼んでいた。
池があり、井戸があった。
アカショウビンや黒ツグミが訪れ、水辺にはカワセミがきた──。
自然の木々や鳥を愛した傷心の詩人には、願ってもないような安らぎのすまいだったろうと偲ばれる。

ところで、この土地は相続税を支払うために物納される見込みで、そうなると競売があり、開発されることが予想される。過去を偲ぶには今年が最後の機会かもしれないので、今年の「みずならの会」は、ぜひここでしたかったと栄子さんが語られた。
尾崎喜八に関する詩や散文を読んで、いつか分水荘に行って、どんな様子だったか知りたいと思っていたので、僕もかろうじて間に合ったことにはなる。
でも、分水荘には、尾崎家の人だけでなく、富士見の人、近くの高原病院に入院していて尾崎喜八との会話を楽しみにしていた人など、たくさんの人たちの思いが残っている。もうすでに家がなくなり、池も井戸もなくなり、おもかげは薄れてきているのだが、森そのものまで失われるのは無惨な気がする。

■ 小川の匂いにひかれて富士見に住んだ写真家

「みずならの会」に参加されていた佐藤敏恵さんから、午後には清里フォトアートミュージアムで、写真家・西村豊さんのギャラリー・トークがあると教えられた。
いろんなことが重なる日で、野辺山の国立天文台では年に1日だけの特別公開があって、ふだん見学できないところも公開されるので、午後はそちらに行くつもりだったのだが、予定をかえて清里に行くことにした。
僕が長瀞の埼玉県立自然の博物館(当時は埼玉県立自然史博物館)にいた頃、清里フォトアートミュージアムが収蔵する西村さんの写真をお借りして写真展を開催したことがある。ミュージアムにも写真家にも、とてもお世話になり、おかげでとてもいい展覧会ができた。
そのときに西村さんに講演もお願いし、聞いていてジワっと心の底から感激するのを覚えた。
その後もあらたまった場でなく何度かお会いしていて、そんなときの気楽な話も楽しいけれど、いろんな人を前にして話すときの熱の入り方はまた違う魅力があって、こういう機会を見逃すことはないと、方向転換をして清里に向かったのだった。

清里フォトアートミュージアムで久しぶりに西村さんのヤマネの写真を見て、静かな興奮がよみがえった。写真家がきっちり仕上げて、ミュージアムの収蔵庫にきっちり保存されている写真は、やはり本やポスターで見るのとは質が違う。
雪の冷たさ、触れるとカリカリしそうな感触の予感、そこにいるヤマネは鼻や足先が赤く内側から輝くようで、ヤマネの体温のあたたかさ、生きているものがそこに写っているという感じが確実に伝わってくる。

西村さんの講演は、ロビーでの前置きの話のあと、展示室で作品を見ながら進められた。
熱のこもった話を聞いていると、いい写真をとるという思いが、命を大切にするという思いに裏打ちされているのだと理解されてくる。

今日のお話のなかで、とくに印象に残ったのは、こんなことだった。
撮影や観察に集中している時期には、感覚が鋭敏になる。
あるとき、観察の仲間と営林署用の道を歩いていた。ピタっと足がとまった。気になるほうを向いて、「あそこ!」と指さすと、木に穴があいていて、まわりに苔がついている。
夜、懐中電灯を持って出直してみると、ヤマネがいた。
「どうしてわかるのか?」ときかれるが、ほとんど神の意志が届くというくらいにしかいいようがない。感じて、足がとまり、見えてくる。
感覚がさえてくると、どんどんいろんなものが見えてくるのだが、怖いこともあって、ある時、ある木のあたりで、人のイメージが見えた。自分の背中とか頭とか、総毛立ってしまって、数十メートル離れてようやくおさまった。そこで首を吊った人がいたと、あとできかされた。

深く深く入り、集中すると見えてくるものだあるのだろう。逆にいえば、僕など、ふだんいかに見えないまま暮らしているか、ということでもある。
僕もいくらかなり、なにごとかなり、見えるようになりたい、見える人に近づきたいと思う。

展示作品の最後であり、ギャラリー・トークの最後でもあったのは、ヤマネが切り株につもった雪の上で眠る写真だった。前から僕が大好きな写真のひとつだ。
まるで、暗黒の宇宙空間にうかぶ天体に、たった1つ小さな命が生きているように思える。
『星の王子さま』を思い出しもする。
国立天文台から方向転換して来たのだが、やはり宇宙的なものでしめくくることになった。
清里フォトアートミュージアム。ヤマネの写真展の前で語る西村豊さん。

荒川に関わりがある方とお会いするときにはサインをいただいているのだが、西村さんからも独特の書体のサインをいただいた。京都生まれの西村さんが長野に住むことに決めた理由のひとつは、長野の小川はいい匂いがするからだったと書き加えられた。

■ 富士見の人の生き方

富士見町の南部の開けた谷に井戸尻遺跡という縄文時代の遺跡があるが、その近くに自称・農民の武藤盈さんが住んでいられる。
昭和30年代に、荒川の源流である秩父に鋸の行商にでかけていたが、そこでたくさんの写真をとった。
その時代、その地域の貴重な記録であり、民俗学者・須藤功さんの文章を加えて『写真で綴る 昭和30年代農山村の暮らし』というぶあつい写真集を出版された。
長瀞にある埼玉県立自然の博物館で西村豊さんのヤマネの写真展を開催した頃のことで、西村さんといっしょに博物館に来館されたときに、僕は初めて武藤さんにお会いした。

その後のおつきあいのうちに、写真だけでなく、もっといろいろなことをされていたことがわかってきた。
サントリー美術館と組んで井戸尻遺跡の発掘をする。
建築の仕事にも関わり、画家の中川一政の家族が八ヶ岳に別荘を建てたのが縁で、中川一政とその家族とのつきあいも長い。(その他、人脈のことをいってるとほとんどキリがない。)

自宅もご自分の美意識で改築・改装されていて、外観は信州の大きな農家で、中にも農具が置かれているのだが、落ち着いて新鮮なデザインをされている。
床の間にはなじみの骨董屋から買ったというのどかな絵柄の墨絵がかかっていて、客人は緊張がとれてくつろいだ気分にしてもらえる。
武藤盈さんの富士見町の住まいの玄関。すてきなデザインを自分でされた。

2階は書斎で、まさに「文房清玩」というのにふさわしい、風雅な文人の部屋につくられていて、窓からは甲斐駒と鳳凰三山が眺められる。

多才であることは承知していたのだが、今年は歌集を出版されてまた驚かされた。
農民の暮らしをうたい、恋心をうたい、老いをうたう。
自分の心情世界にどっぷりつかりきってしまわないで、外から眺めるような、からっとしたユーモアの感覚があって、僕は日をかけて、少しずつ、味わいながら読んだ。

 骸(むくろ)とはこんな物かと老いし身を擦りて思ふ冬日の閑居 (1997年83歳)

 黒楽茶碗の口ほんのりと染りたり君の唇触れし辺りは (1998年84歳
)

ところが歌集ではさらにもうひとつ驚きがあって、戦争体験のことも言葉にされていた。戦地で捕虜への加害を命じられた体験は今でもよみがえる。また、そうしたことを起点にして、今の農民としての暮らしのこと、農政のこと、さらには国家への思いなどが、さすがに重さや苦さをおびて句になっている。

 生くる良し死しても良しと思ふ日の心の底に軍靴のひびき (2000年86歳)

 百姓を大御宝と言ふ国に殉ずる如く地下足袋を履く (1998年84歳)


この歌集に注目した信越放送が武藤夫妻の日常を取材し、テレビ番組が制作された。
ご自分では積極的ではなかったけれど、戦争体験のことも話されたという。加害について、当事者がテレビで語ることは例がないことだと思う。

尾崎喜八の「みずならの会」があり、西村豊さんのギャラリー・トークがあった次の日に、武藤さんのお宅に伺ったのだが、たまたま長野ではこの日の早朝が、その番組の放送日だった。
放送を見た人たちから電話があったなかに、かつての戦友からもあったという。
率直にいいあえる人から句をほめられたのがうれしかったが、戦争のこともあり、笑ったり泣いたり、長い電話になったと語られていた。

写真、考古学、建築、和歌と多彩な達成をされ、その過程でまた多彩な人とつながりがある。それでいて決して得意げにならなくて、穏やかで、淡々として、謙虚な考え方、物言いをされる。
東京から隠遁したプロの詩人の尾崎喜八が、「信州には篤学の人がたくさんいるので、たとえ老人を相手でも知ったかぶりの態度をとったりすると大恥をかくことになる、気をつけない」というようなことを書いている。
富士見も篤学のレベルが高かったようで、武藤さんもその系譜につながっていると概括的にはいえるのだろうけれど、僕はなかでも突出した、とても希有な人にめぐり会えたことになる。あらためて幸運を思った。

          ◇          ◇

前日の午前は尾崎栄子さん、午後には西村豊さん、今日の午前は武藤盈さん、それに関わりのある方たちともお会いし、とても密度の濃い楽しい時間を送った。
そうしためぐり会いの喜びの一方で、分水の森は処分されそうな状況にあるし、失われるものを見ていく時間でもあった。

武藤さんの住まいの近くにも、今のうちに見ておくといいものがあるといわれて案内していただいた。
(「野良仕事にいつも使ってる軽トラックで案内しようか?」
「いえ、僕の車で行きますよ!」
 とにかくお元気です。)

□ 某作家の別荘
今生きていられる方に関わるので名を秘すが、よく知られた作家の別荘があった。ときおり酒飲み相手が欲しくなると武藤さんに誘いの声がかかり、駅の近くの食堂で飲んだものだという。
(この作家のことも歌集でうたわれている)
川端康成の軽井沢の別荘なども設計した広瀬三郎が、気に入った民家を移築して建てた、大きな屋根をもった別荘だが、1993年に作家が亡くなったあと、つかわれないままにいたんでいっている。

□ 栗本図書館
中央公論美術出版の栗本和夫は退職後、財団を設立して図書館を作った。
碌山美術館のような小さい美しい個人図書館を作りたいと谷口吉郎に設計を依頼した。
願ったとおりに図書館は森のなかにひっそりとあるのだが、今は、たちゆかなくなって休館している。
栗本図書館。谷口吉郎設計。休館中の紙がはってあった。。

僕らの社会はこうしたよいもの、美しいものを支えきれない、目を向ける余裕がない...と、胸ふさがれる思いがする。
でも、失われていくものは惜しいけれど、ひとまずよい旅であったと思いたい。

参考:

  • 富士見町高原のミュージアム
    長野県諏訪郡富士見町富士見3597-1
    tel. 0266-62-7900
    http://www.alles.or.jp/~fujimi/kougen.html
  • 清里フォトアートミュージアム
    山梨県北杜市高根町清里3545 tel.0551-48-5599
    http://www.kmopa.com/
  • 井戸尻考古館
    長野県諏訪郡富士見町境7053 tel. 0266-64-2044
    http://www.alles.or.jp/~fujimi/idojiri.html
  • 西村豊さんの本
    『ヤマネ日記 西村豊写真集』 講談社 2002
    『本宮二之御柱写真集』 ネイチャ−フォト・プロダクション 2004
    『干し柿 』 (あかね・新えほんシリーズ) あかね書房 2006 ほか多数
  • 武藤盈さんの本
    『写真で綴る 昭和30年代農山村の暮らし』 写真・武藤盈 聞き書き・須藤功 農山漁村文化協会 2003
    『古民家スタイル no.1 』 ワールドムック445 ワールドフォトプレス 2003
    『別冊・太陽 骨董をたのしむ53 古民具のある暮らし』 平凡社 2005
    『山里の四季をうたう−信州・1937年の子どもたち−』 編集・井出孫六、名埜正一郎 写真・武藤盈 岩波ジュニア新書 2006
    『田園生活九十餘年の歌集 夕映え』 武藤盈 近代文芸社 2007
  • 武藤盈さんのテレビ番組は、2007.9.2(日)テレビ朝日(5:20-5:50) 『生きる×2 野良に在りてこそ』 として放送された。
  • 『一図書館の由来記』 栗本和夫 中央公論美術出版 1980
  • 『ミュージアムが人を結ぶ』 渡辺恭伸 さいたま川の博物館紀要第6号 2006
    [ 山を歩いて美術館へ] 入笠山から (旧) 富士見高原療養所・富士見町高原のミュージアム